2026(令和8)年9月5日、東近江市のてんびんの里学習センターにおいて、
**「滋賀教区第3ブロック 第26回 僧侶・坊守・寺族研修会」**が開催されました。
今回の研修テーマは、
「講談で味わう仏教」
です。
講師には、講談師であり、浄土真宗本願寺派の布教使でもある
旭堂 南雲(きょくどう なぐも)師をお迎えしました。

第3ブロックの研修会は、組や寺院の違いを越え、同じ宗派・教区の一員としてともに学び、それぞれの寺院や組が抱える課題について考え、今後の寺院活動へとつなげていくことを目的として開催されています。
講談とは
研修の冒頭では、まず「講談」とはどのようなものなのかについてお話しいただきました。
落語が基本的に架空の人物を中心に物語を展開するのに対して、講談は、歴史上の人物や出来事などを題材として語る芸能です。
講談では、講談師の前に**「釈台(しゃくだい)」**と呼ばれる台が置かれます。
かつてはこの釈台の上に書物を置き、文字を読むことのできない人々に、歴史や物語を読み聞かせていたことが講談の原点の一つであるとのことでした。
旭堂南雲師は、講談師として活動される一方で、本願寺派布教使としても活動されており、現在は講談を通して仏教に親しんでもらう取り組みを続けておられます。
今回は、その講談という伝統芸能を通して、仏教のお話を味わわせていただきました。

妙好人・石橋寿閑
最初の講談は、**「妙好人・石橋寿閑」**のお話でした。
石橋先生は医師であり、もともとは阿弥陀如来の本願を信じることなく、むしろ馬鹿にしていた人物だったといいます。
しかし、その人生を大きく変える出来事が起こります。
実の娘さんが病に倒れ、やがて亡くなってしまうことになったのです。
亡くなる直前、娘さんは父である石橋先生に、
「死んだらどうなるの?」
と尋ねました。
石橋先生は、その問いに対してとっさに、
「お浄土へ行って、阿弥陀さまに大切にしていただくんだ。南無阿弥陀仏と手を合わせて称えれば、お浄土へ参らせていただける」
という趣旨の言葉を娘さんに伝えられたそうです。
それまで自らは否定していた阿弥陀如来の本願。
しかし、愛する娘との別れという、自分の力ではどうすることもできない深い悲しみの中で、自らの口から念仏の教えを語ることになりました。
そして、この出来事を大きなご縁として、石橋先生自身がお念仏の教えに出遇っていかれたというお話でした。
仏法は、自分が何の苦しみもなく過ごしている時には、どこか遠い話のように感じることがあります。
しかし、愛する人との別れや、自分の力ではどうすることもできない出来事に出遇った時、それまで聞いてきた教えが、初めて自分自身の問題として響いてくることがあります。
石橋先生のお話を通して、そのことを改めて感じさせていただきました。
法然聖人 ご出家の由縁
続いて語られたのは、**「法然聖人 ご出家の由縁」**です。
法然聖人は、幼い頃「勢至丸」と呼ばれていました。
その勢至丸が、父の悲しい最期に立ち会う場面が描かれました。
父は亡くなる直前、勢至丸に最後の言葉を託します。
その内容は、
「仇を討ってはならない。怨みに怨みをもって返してはならない。憎しみの連鎖を繰り返してはならない」
という願いでした。
そして、
「怒りや憎しみから離れた仏の道を歩んでほしい」
と我が子に願い、阿弥陀如来に向かって手を合わせ、命を終えていかれたと語られました。
父の悲しい最期を看取った勢至丸は、その後出家し、やがて法然聖人として仏道を歩んでいかれます。
大切な人を奪われた悲しみや怒りを、さらに新しい怒りや憎しみへと変えていくのではなく、その連鎖を断ち切る道として仏道を歩んでほしい。
父から子へ託されたその願いは、時代を越えて、現代を生きる私たちにも問いかけられているように感じました。
「講談」で仏教を聞くということ
今回の研修で特に印象的だったのは、同じ仏教のお話であっても、講談という形で聞くことで、登場する人物や情景が非常に身近に感じられたことです。
単に、
「法然聖人はこのような生涯を送られました」
と知識として聞くのとは違います。
声の強弱や間、語りの勢いによって、父の最期の場面や、勢至丸の姿が目の前に浮かんでくるようでした。
石橋先生のお話についても、
「妙好人とはどのような人なのか」
と説明を受けるのではなく、一人の父親が娘の死と向き合う姿を通して聞くことで、お念仏との出遇いがより深く伝わってきました。
仏法を伝える際には、もちろん「何を伝えるか」が大切です。
しかし同時に、「どのように伝えるか」も非常に大切であることを、今回の講談を通して改めて考えさせられました。
質疑応答
講談の後には、質疑応答の時間も設けられました。
「普段どれくらい練習されているのですか」という質問には、南雲師は、毎日2時間以上練習されていると答えられていました。
また、
「途中で内容が飛んでしまったことはありますか」
という質問には、実際に何度か経験があるとのお答えでした。
特に印象に残ったのは、
「人に届きやすい話し方をするには、どうすればよいですか」
という質問への回答です。
講談には、**「修羅場読み」**と呼ばれる稽古があるそうです。
場面を説明する文章などを、句読点で大きく区切ることなく、大きな声で一気に読み上げる練習を繰り返します。
それを続けることによって、しっかりと声が出るようになり、人に届く話し方につながっていくとのことでした。
布教や法話に携わる私たちにとっても、教えの内容を学ぶだけでなく、声の出し方や、どのように聞き手に届けるのかを磨いていくことの大切さを考えさせられるお話でした。
研修を終えて
今回の研修では、講談という日本の伝統芸能を通して、仏教の教えをいつもとは少し違った角度から味わわせていただきました。
「妙好人・石橋寿閑」では、愛する娘との別れという深い悲しみが、お念仏との出遇いのご縁となりました。
「法然聖人 ご出家の由縁」では、父との悲しい別れの中で、
「怨みを怨みで返してはならない」
という願いを受け取り、仏道へと歩んでいかれる姿が描かれました。
考えてみれば、二つの講談には共通して、大切な人との別れがあります。
人間には、どうしても避けることのできない悲しみがあります。
仏教は、その悲しみを無かったことにする教えではありません。
その悲しみを抱えた私たちに寄り添い、その中に仏法との出遇いを開いてくださる教えなのではないかと、今回のお話を聞きながら感じました。
また、講談師として日々研鑽を重ねておられる南雲師のお姿から、私たちが仏法を伝える際にも、教えを学ぶことはもちろん、それをどのような言葉で、どのような声で、どのように届けていくのかを考え続けることが大切であると感じました。
大変貴重な研修のご縁をいただきました。


コメント